はじめに
こんにちは、ともはるです。
インターネットを見ているとインタビューに答える父親、祖母に対して怒りの意見が散見されています。どこか他人事のようなインタビュー回答が人々のカンに触っているらしいのです。
僕としては家族に対してそのような怒りを感じている人たちに対する疑問の方が正直に言って大きいです。
怒りを感じている人は家族が何と答えれば納得するのだろうか?
「家の子があんなことをしてしまって申し訳ありません……死んでも償いきれません」と涙ながらに語る家族の姿をイメージしてるのではないでしょうか。
確かに、涙ながらに感情的に世間に対してお詫びをするという姿勢は、日本では重視されています。
少なくとも遺族に対しては誠心誠意のお詫びの姿勢は重要であろうと思います。
しかし我々その他の人間に対してそんなことする必要があるのだろうか。
むしろ犯人の人生を見てみると、家族は何とかして犯人を社会適応させようと努力した様です。自立支援施設に入所させたり親元を離れさせて懐いている祖母の家にいかせたりもしていました。
発達障害があり、何となく育てにくい我が子なんとかしようと言う気持ちがあった様に思います。
それよりも、育てにくいけれど自分達の所でずっと面倒を見る、自分たちが最後まで面倒をみる、と家族だけで抱えてしまうことの方が問題が大きくなることが多いです。
専門機関を頼っていいし、もうちょっと手放すくらいでもいい、それが本人や家族にプラスになるのであれば。
逆に障害がある子ども家族が大人になるまで抱え続け、家族が高齢化し家族だけで支えきれなくなってから、専門機関に繋がるケースも多いです。そういったケースの方がむしろ支援が入りにくくなっているし、本人も長年の生活で社会との距離が大きくなっているので大変なことも多いです。
そんな事を知っていると、家族はなんとなく他人事という位のスタンスの方が良いのではないかと思っています(家族として必要な協力はして欲しいけれど)。
親が子ども虐待をしていたのならともかく、何とか手を尽くそうとして動いた結果が今回の事件なのだから、親に責任を求めるのは違うと思いました。
発達障害と事件との関連性
「発達障害があって育てにくかった」と言う発言が注目を浴びています。
発達障害があると確かに育て難さはあるのかもしれない。でも今回の事件と発達障害がイコールにはならないです。
健常者と発達障害者との間は1枚の壁で仕切られているというものではないです。
むしろ我々人間全員に発達の偏りはあり、その偏りが大きいと社会に適応するのが難しくなるものです。
その社会適応が難しくなった状態を発達障害と呼んでいるため、どこからが発達障害でどこから発達障害じゃないのかというところが非常に難しいのです。
家の管理(掃除や整頓、生活リズム)は発達の偏りがあって苦手でめちゃくちゃでも、仕事(職人の様な仕事だったり、人によって様々。その人に合った仕事と巡り合っている)は出来ているという人は、医療機関に繋がらないし、発達障害はつけられないです。
うつ病の人が自殺する可能性が高いというのは数字を見れば明らかです。自殺する方はかなりの確率でうつ病を患っていたりうつ状態に陥っていたことはあらゆる研究から分かっています。
しかし、発達障害の人の犯罪率と発達障害でない人の犯罪率を見ると、発達障害でない人の犯罪率の方が倍ぐらい高いです。発達障害そのものが事件を起こした、あるいは発達障害があると事件を起こすという事は言えないのです。
今回の事件の真犯人は
ただ一点付け加えるとすれば、発達障害という生きづらさが犯人の人格形成に影響与え、その人格形成をもとに今回の事件が引き起こされたという事は言えると思います。
僕は発達障害があり「人となんとなく違うな」という人であっても生きやすい社会を我々が作っていればこのような事件は少なくなると思っています。
小学校、中学校のクラスに数人は発達の偏りが大きい子がいると今では言われています。
「あの子なんとなく僕たち違うなぁ」と違和感を感じたことがある方は多いでしょう。
そういう友人に対してわれわれはどんな風に接していたでしょうか?
いじめっ子がいてその子のこといじめている、他の人はそれを見て見ぬふりをしている。
そういった環境で育った発達障害のある子は大人になった時、社会対してどう思うでしょう?
社会に対する憎しみを少なからず持つのではないでしょうか?
発達障害がある子をクラスみんなで友達として支えた場合ではどうでしょう?
その発達障害のある子は大人になって得意な分野で成功するかもしれないし、しないかもしれない。
ただ少なくとも社会に対して、この世界に対しては良いイメージを持てるのではないでしょうか。
発達障害そのものが今回の事件を引き起こしたのではなく、発達障害をもって生まれた子どもに対し、周りの私たちがどのような環境を作り、どのような態度で彼らと接してきたかという点が1番のポイントなのです。
つまり発達障害がない我々の側に問題があるのだと僕は強く思っています。
今回の事件で「親が謝るべきだ」「態度が悪い」「発達障害のせいだ」と非難をしている我々の中の一部と、そういった言葉そのものが、人の多様性を認めない空気感を作り、発達障害の方の生きづらさに繋がっているのではないかと思います。
その結果こういった事件を引き起こすような思想が生まれているのではないでしょうか。
この事件を通して改めて、我々に必要なのは人の多様性を認める寛容さなのだと思いました。